清水寺の縁起

縁起

当清水寺は1420年余前、用明天皇2年(西暦587年)山城国の住人、尊隆上人によって開かれたお寺です。

寺伝によると当時は山深く谷窮まり、老松古柏が鬱蒼と生い茂り、近づく者とてない気味の悪い山でした。ところが夜になると里に向かって一条の光が現れ、里人を怖がらせていました。

そんな折り、山陰道を巡錫中の尊隆上人が通りかかり、十神山の神の願いを受け、光の源を探るべく山の中腹まで登ってくると、1人の白髪の老人が現れ「今日まで観音様をお祀りしてきたが、そろそろ次の世に往かねばならぬので替わりに観音様をお祀りしてくれる人を探していたと、一体の霊像を託された。尊隆上人が小さな草堂を結んで霊像を安置したのがお寺の始まりです。

しかし、当時は水が一滴も水が出なかったそうで、一週間の間、水が出るように密行を施すと、草堂の直ぐ側から水が湧き出し、その水が雨期にも濁ることなく、乾期にも枯れることなく、常に清い水を湛えたところから、山号を「観音様に巡り合える幸せな光が出た」ことから瑞光山とし、寺名を清水寺と名付けたと伝えられています。

推古天皇5年(597年)、”天皇は瑞夢に清水寺の観音、厄ばらいの霊験あらたかなることを感得され、詔を奉じて新たに本堂を造営させ、斎田を施して、鎮護国家の道場としたもう。その後幾多の星霜を経て堂塔伽藍ことごとく荒廃し、中興開山盛縁上人16歳で登山、復興に努めるも道険し、そんな折り、平城天皇瑞夢にてその努力を知られ、詔を奉じて堂舎を再興させる。大同元年(806年)3月、都より多くの公家を迎えて盛大な落慶式を営む。正に絵巻を見るが如くであった”と伝えられています。

これにより当寺は中国地方随一の伽藍を誇ったとのことです。その後は朝廷、豪族の庇護を受けて益々栄え、盛時には僧坊48を数えたと云われます。しかし戦国時代となり、尼子と毛利の戦いに巻き込まれ、尼子軍が根本堂に立て籠った為、毛利軍によって焼き打ちに合い、根本堂のみを残して全山廃尽に帰すも、勝った毛利家、江戸時代に入ってからは松江藩主代々の庇護を受け、今日の姿に復興しました。

開創当寺の宗派は不明ですが、承和14年11月比叡山の慈覚大師円仁、唐留学の帰路当山に立ち寄られ、秘密大潅頂光明真言(今日の諷誦法要)の秘法と精進料理(現在の清水精進料理、清水羊羹の元)を伝習され、これを機に天台宗となり比叡山延暦寺を本山としました。以後天台密教を修法する祈祷寺として今日に至っています。

推古天皇の勅願以来厄ばらいのお寺として、また山陰における観音信仰の霊場として広く信仰を受け、「出雲の国神仏霊場第11番」、「出雲の国観音霊場第21番」、「中国観音霊場第28番」霊場として多くの参拝を頂いています。