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5月の言葉

 
 

一切の衆生は本来常住であり、既に涅槃の世界に入っている。
覚りはことさらに修得すべきものでもなければ、覚りに到達する事によって初めて獲得するものでもない。

 
 
大乗起信論より
 
 

 法華経と言うお経には『「生命」有るものは誰でも仏となる事の出来る、即ち仏性が備わっている。』と説かれているが、大乗起信論と言う研究書には更に突き詰めて、生命有るものは本来既に覚りの世界(即ち涅槃ー完全な覚り)に至っている。
よって、殊更に覚りを得る為に厳しい修行をする必要は無い。覚りに至ったからと言って特別に変わる事も無いのだ。と言い切っている。
私たちの実感からすると賛同する事が出来ないように思うが、実は「さとり」とは特別な事ではなく、普段の私たちそのものが既に覚りの姿だと主張しているのです。何故かと言うと、私たちは回りに起こる出来事を欲望とか、執着とか、怒り、妬みと言う感情で判断しようとするので、そこに迷いや苦しみ悲しみが生まれる原因が有る。しかし、同じ出来事が周囲で起こっても、その事に関心を寄せなければ、特別に欲望が生まれる事も無く、執着・妬み・驕りの感情も起きず、そこから不安や恐怖感、悲しみや苦しみは生まれてこず、一切の出来事に対して、平常心で淡々とした気持ちで接する事が出来るのである。
先哲はこの平常心での生活こそが涅槃であり、本来誰もが持っている覚りの境地である、と主張している。
お釈迦様は8年間に及ぶ苦行の末に、その苦行を捨て、静かに瞑想して、一切の心の動揺を捨て、何時でも、如何なるときにも「平常心」を失わない事を心がけ、覚りを開かれたのである。
この事からも、迷い多い私たち凡夫も、本来は覚りを得て涅槃に入っているのだ。しかし、その事に気づかず、自分で自分を迷わせ、苦しめているのであり、己の仏性を磨く覚悟と既に涅槃に入っているとの自覚を持てば、今抱えている悩みは一気に吹き飛んでしまうのである。

 
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