お知らせ

New 6月の言葉

2023年5月31日 ブログ

6月の言葉 まだ善の報いが熟しないあいだは 善人でもわざわいに遇うことがある しかし善の果報が熟したときには 善人は幸福に遇う 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』 より <解説>    多くの方は「自業自得」(じごうじとく)という言葉を一度は聞いたことがあると思います。『大辞林』によると、以下のように説明されています。       〘仏〙自分のおこないの結果を自分が受けること。一般には悪い報いを受けることにいう 『大辞林』でも言及されていますが、この言葉は仏教語です。また、違う表現をするならば「善因楽果、悪因苦果」となります。善なる行為(善行)は快なる結果をもたらし、その反対に、悪なる行為(悪行)は不快な結果をもたらす、ということを意味します。いずれの表現でも良いのですが、仏教ではこの「自業自得」の原則を重視しています。    聖句に話を戻すと、上記の教えの前には悪行についても説かれており、「まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う」と記されます。    つまり、ここでは先ほどの「自業自得」の理をもう少し具体的に説いてくれています。善行あるいは悪行による結果(報い)は、必ずしも即時的ではないことを補足しているのです。これは、善行の結果がすぐに出ないからといって、善行をあきらめて悪行に慣れしたしんではいけない。善行を積み重ねていくことの重要さを教えてくれています。我々凡人は行為の結果をすぐに求めがちですが、それに流されずに善行を続けたいものです。
全山閉山のお知らせ

2023年5月12日 重要なお知らせ  

全山閉山のお知らせ 下記の日程にて、根本堂のすす払いを行うため、全山閉山いたします。 期間中は、終日境内へお入りいただけません。 参拝を計画される際にはご注意ください。 <閉山期間>  令和5年7月19日(水)~7月21日(金)      
5月の言葉

2023年4月29日 ブログ

5月の言葉 善をなすのを急げ 悪から心を退けよ 善をなすのにのろのろしたら 心は悪事をたのしむ 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    今月は、これまでに紹介してきた中でも特に短い句を取り上げます。    上記の聖句では「善」と「悪」について明確な説明はありませんが、おそらく道徳的なことを意味していると思われます。しかし、それでは分かりづらいかもしれませんので、引用元の『法句経』からではありませんが、善悪について説かれている箇所を参照しながら、説明を進めていくことにします。    「善」の代表的なものとして「十善」(じゅうぜん)があります。すなわち、(1)殺さず・(2)盗まず・(3)邪淫(道を外れた淫事)せず・(4)妄語(嘘をつくこと)せず・(5)綺語(飾り立てた言葉)せず・(6)悪口(荒々しい言葉)せず・(7)両舌(人を悪くいう言葉)せず・(8)貪らず・(9)瞋らず・(10)邪見をいだかず、の十種のことです。そして「悪」とは、この十善の反対であると説明しています。普段聞きなれない言葉も使われていますが、最初の七つは他者への振る舞いが説かれ、最後の三つは自分自身について触れられます。    かつてここで書いたことがありますが、人は漫然と過ごしていたのでは貪りなどの煩悩に振り回されて悪いことを行ってしまいます。積極的に「悪」を離れて「善」なる行いをすることで、その人にとって不快ではなく快なる結果がもたらされます。それが引いては、心乱れない状況や環境を作り出し、穏やかな生活を送ることができてくるはずです。
4月の言葉

2023年3月31日 ブログ

4月の言葉 (おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる 聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え —— 隠してある財宝のありかを 告げてくれる人につき従うように 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    今月は『法句経』の「賢い人」という章から聖句を選びました。    若い時には親や先生、先輩から誤りを指摘してもらえることが多くありました。その時には反発するような気持ちにもなりましたが、今となっては感謝の気持ちしかありません。ただ年齢を重ねてくると、そもそも誤りを指摘されることが少なくなってきました。これが成長できた結果であればいいのですが、ただ周囲から諦めで見捨てられているとしたら、実になさけないことです。    さて、上記の句には続きがあり「そのような人(=賢い人)につき従うならば、善いことがあり、悪いことはない」と記されます。ここで言及される賢者とは「真理に通達した人」、つまり「覚った人(=ブッダ)」を指すと考えられます。    人は正しい智慧を備えていないと善悪の判断を適切に下せないことがあります。年代を問わず、誰にとっても誤りを指摘し正しい道へと導いてくれる人は貴重な存在です。ただし、肩書きのある人が必ずしも正しい知識・智慧を持っているとは限りません。その人の振る舞いや話す内容から、信頼に値する人物かどうかは自分で判断をする必要があります。わたしたちは人を見る目を磨いて賢い人と関係を築き、正しい道を歩むべく努力していかなければなりません。
3月の言葉

2023年2月28日 ブログ

3月の言葉 うるわしく、あでやかに咲く花でも 香りのないものがあるように 善く説かれたことばでも それを実行しない人には実りがない 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    長い冬がそろそろ終わりを告げ、3月になると春本番となってきます。今月の後半ともなれば、色鮮やかな春の花々を目にする機会が増えてくるのではないでしょうか。    日本と釈尊が過ごしたインドでは、当然のことながら生息する花の種類は異なるでしょうが、花を愛でる気持ちに大差はないように思います。    これまで何度も紹介してきた『法句経』というお経には、その「花」にちなんだ教えをまとめている箇所があります。今月はその中から教えを選んでみました。    日々、我々は種々雑多な情報に接しています。その中には、有益な情報であったり、教え・教訓となるものがあると思います。みなさんは自分にとってそうした教えや教訓となり得るものを見聞きした時に、行動に移せるでしょうか。頭では有益であることが分かっていても、気分が乗らなかったり、他の欲求の方が勝ってしまい実践できないことは、誰しも経験があろうかと思います。    仏教に限らないかもしれませんが、教えや教訓を見たり・聞いたりしているだけでは、その有益さを実感することは難しいはずです。やはり、その教えや教訓にもとづいて実践することにより、それらの教え・教訓がもつ有益さを経験・体得できるのではないでしょうか。ただ、そうは言ってもすぐに全力で行動へ移せる人は多くないでしょう。そんな時は、少しずつでもいいから、行動へ移していくことを意識すると良いかもしれません。
2月の言葉

2023年1月30日 ブログ

2月の言葉 修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか わたくしは、内外の区別なしにことごとく法を説いた 全き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような 教師の握り拳は存在しない 中村元訳『ブッダ最後の旅』より <解説>    今月15日は「涅槃会」(ねはんえ)です。これは釈尊が亡くなられたとされる日に行われる法要です。今回は、その「涅槃」にまつわる有名なエピソードを紹介します。    ある時、80歳の釈尊は病にかかります。釈尊はその病からは回復しますが、その釈尊に対して侍者の阿難(アーナンダ)が最後の説法を請いました。それに対して、釈尊が上記のように語りました。    仏教外の宗教においては教えの伝承が限定的・閉鎖的であるのが一般的であったにも拘わらず、釈尊はその常識を打ち破って、自らが覚ったこと(教え)を請う人々みんなへ伝えてきたことをここで阿難へ教えているのです。    釈尊の生涯を通してみると、35歳で覚りを得てから、一度はその教えが難解なため説法することをためらいます。しかし、梵天という神様から説法を求められて以降は、相手の身分や階級を選ぶことなく教えを説きました。それは、釈尊の臨終間際まで続けられます。つまり、先ほど自らが語っていたように、誰にでも説法をし続けていたのです。    もし、釈尊が当時のインドの慣習にしたがって、教えを特定の人のみに伝えていたら、我々まで仏教は来ていなかったかもしれません。我々のような凡夫のために教えを生涯説き続けた釈尊の姿には「慈悲の心」が見て取れると同時に、当時の宗教界の常識にとらわれなかった先進的な考え方に感心するばかりです。
2月6日 祈祷事前受付中止について

2023年1月29日 重要なお知らせ  

以下の予定で、拙寺ネットワーク設備のメンテナンスが行われるため、Webによる祈祷の事前受付は中止いたします。 ※事前登録そのものは行えますが、拙寺での内容確認が出来ません。 期間:2023年2月6日(月) 終日   ご不便をおかけいたしますが、ご了承ください。
正月の言葉

2022年12月27日 ブログ

正月の言葉 心は、捉えがたく、軽々とざわめき 欲するがままにおもむく その心をおさめることは善いことである 心をおさめたならば、安楽をもたらす 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。    さて、みなさんはご自身の「心」をどのようにお考えでしょうか。心は自分のものであるから、完全に制御(コントロール)できるものと考える方もおられるのではないでしょうか。    ただ、本当に普通の人間が心というものを完全に制御できているでしょうか。    例えば「欲求に負けて食べることを止めていた物を口にする」ことや「早くしなければならないことがあるのに、気分が乗らないから、行動に移すことができない」といったことは、大抵の人が一度や二度は経験があるのではないでしょうか。もちろん、心を制御できているときはあるでしょうが、常時制御することはかなり困難であると思います。    仏教では、人は「心をおさめること」を怠ってしまうと、欲望によって心が侵食されていくと考えています。ここでは直接言及されていませんが、心をおさめることを実践し制御することで、貪りや怒り、嫉みといった余計な感情(煩悩)を生じさせず、心乱れない状態を作り出せると言われます。すなわち、心穏やかな状態(安楽)がもたらされるのです。    自分も含めて、ほとんどの人は欲求に流されて、心が乱れがちになってしまいます。定期的にでも良いので、心の制御のために自分を律することをしていきたいものです。
12月の言葉

2022年11月30日 ブログ

12月の言葉 つとめ励むのは不死の境地である 怠りなまけるのは死の境涯である つとめ励む人々は死ぬことが無い 怠りなまける人々は死者のごとくである 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    仏教では、古くから「つとめ励む」ことを称え、「怠りなまける」ことや「怠惰」なことを諌めてきました。    自分を律することができず怠惰な人は、生活をしてはいますが、特段何かをするわけではないと考えられます。その反対に、自分を律することができ「つとめ励む」人は行うべきこと・行うべきでないことを峻別して、自分の使命や務めを果たしていくくと思われます。そして「つとめ励む」ことがその人だけにとどまらず、周囲へも影響を与えていくので「不死の境地」と表現し、その実践者を「不死」と見たのでしょう。当然「怠りなまける」ことは、生きていても周囲へ波及することがほとんどなく、それを「死」、そして怠る人を「死者」のようだと表現しているのです。    先月も紹介しましたが、仏教では我々人間を欲望にとらわれた存在であるとみなしています。そのため、普段何も意識せず(心の修養を)怠りなまけていると、心が欲望に侵食されていきます。逆に(心の修養に)つとめ励んでいれば、余計な感情が心に起こらないので、乱れることがありません。    「心の修養」については、先月の繰り返しになってしまうので内容は省きますが、心を制御(コントロール)するための実践ぐらいに考えてください。    仏教の見方としては、「怠惰でなまける」ことにより得られるものはそれほどなく、「つとめ励む」ことによって心の安寧が得られるのです。それゆえ、「つとめ励む」ことが古くから重視されたのでしょう。
紅葉状況

2022年11月6日 お知らせ  

紅葉が始まってまいりました。 見頃は11月20日前後ごろと見通しです。  
11月の言葉

2022年10月31日 ブログ

11月の言葉 屋根を粗雑に葺いてある家には 雨が洩れ入るように 心を修養してないならば 情欲が心に侵入する 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    今月も『法句経』から選びました。この文章自体は難しいものではありませんが、何を言わんとしているかはいまいち分かりづらいのではないでしょうか。    この教えのキーポイントは最後の句の「情欲」だと思います。    情欲とは「貪り」とも訳されますが、ここでは「過剰な欲求」「激しい欲望」とも言い換えられると思います。仏典では「三毒」(さんどく)といって、人間の根源的な煩悩(欲望)を三つあげるのですが、この「情欲」とはそのうちの一つに数えられるものです。    そもそも、仏教では我々人間を欲望にとらわれた存在であるとみなしています。そのため普段何も意識せず「心の修養」を怠っていると、心が欲望に侵食されてくるということです。逆に「心の修養」に勤めていれば、心に余計な感情が起こらないので、乱れることもないのです。    では、「心の修養」とはどのようなことを指しているのでしょうか。ここでは明確にされていませんが、おそらく、心を制御(コントロール)するための瞑想や戒めの遵守などの実践を意味していると思われます。この「心の修養」とは、現在のお寺でみなさんも体験・経験できることなのです。    繰り返しになりますが、人は漫然と過ごしていたのでは貪りなどの煩悩に振り回されます。「心の修養」を行って、心乱れない状況を作り出し、穏やかな生活を送りたいものです。
10月の言葉

2022年9月29日 ブログ

10月の言葉 実にこの世においては 怨みに報いるに怨みを以てしたならば ついに怨みの息むことがない 怨みを捨ててこそ息む 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    『法句経』の中でも有名なことばの一つです。目にしたり、耳にしたりしたことがある方も多いかもしれません。    人間は他人から不利益を被ってしまった場合、その人物へ不満を抱き怨んでしまいます。そして、この不利益が大きければ大きいほど、相手への怨みを募らせて報復行為へと走りがちです。個人レベルでも怨みを捨てることはなかなか難しいですが、個人から規模が大きくなって国家レベルともなると、さらに困難をともなうことが推察されます。    この教えは、まさに「言うは易し行うは難し」と言えるでしょう。    個人であれ国家であれ、悪事の行為者は、それに対する正当な報い(現代で言えば刑罰など)を当然ながら受けるべきです。しかし復讐心という怨みにより相手を極限にまで追い込むことは、それが報復の連鎖を生み、結果として、争いが止まなくなってしまいます。このことは過去の歴史からも明らかです。    個人的にはこの教えだけではなくて、害意ある行動を起こさせない、そして悪い行為をした場合にはその報いは必ず受けることも併せて説き示し、相手を正しい行動へ導いていく必要があると考えています。    いずれにせよ、本当の意味での平穏・平和の実現とは、この教えの意味をしっかりと理解したときなのではないでしょうか。
9月の言葉

2022年8月31日 ブログ

9月の言葉 ものごとは心にもとづき、心を主とし 心によってつくり出される もしも清らかな心で話したり行ったりするならば 福楽はその人につき従う 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    この教えでは、世界のものごとは、人々の心によって作り出されると説かれています。さらに続けて、清らかな心による行為であれば、その結果である福楽が行為者にもたらされ、それは影がその人のからだから離れないようにつき従うと説明されるのです。    では、その反対に「汚れた心」による行為はどのように言われるのでしょうか。上記の教えの直前に説明がなされており、汚れた心による行為は、その結果である苦しみが自らについて回ると言います。    ここから見て取れるのは、ものごとや人の行為というものは、心の有り様によって変わってくるということです。    例えば、怒りや焦りが渦巻いているときには、普段なら気にも留めない他人の行為やものごとに対して、さらにイライラしてしまうことは誰にでも経験があるのではないでしょうか。そのイライラした心にまかせて何かをしてしまうと、自分にとって不快な結果を招きやすいものです。その逆で心穏やかなときであれば、他人に対しても配慮して行動がとれるので、結果として自分に望ましいことが起きやすいと言えるでしょう。    常に清らかな心を維持できるように心がけておく必要があることを気付かせてくれる教えです。
8月の言葉

2022年7月27日 ブログ

8月の言葉 すべて悪しきことをなさず 善いことを行い 自己の心を浄めること これが諸の仏の教えである 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より <解説>    ご存知かもしれませんが、日本の仏教諸宗派すべてが重視する経典は無いに等しいと言っても過言ではありません。しかし、それでも諸宗派に共通する教えは何かと問われれば、今月あげている『法句経(ダンマパダ)』の一句になろうかと思います。    「悪いことをせず、善いことをして、心を悪に染めないで浄らかにする」という、非常にシンプルとも言える教えです。ここで「悪いこと」や「善いこと」とは何かが問題となりますが、紙幅の関係上、「善いこと」を説明しましょう。    在家・出家において程度の差こそあれ、仏教徒が守るべき基本的な戒めとして、「五戒(ごかい)」があります。その五つとは以下の通りです。    ⒈生きものを殺さないこと    ⒉盗みをしないこと    ⒊性に関して乱れないこと    ⒋嘘をつかないこと    ⒌酒を飲まないこと    戒めを守ることは、財産や人間関係、そして品性ある生活に役立つとされるばかりか、普段からの怒りや嫉妬などからも距離をとることができ、心穏やかな生活を送れると説かれます。    最近の報道でも、これら五戒から逸脱する行為がたびたび見受けられます。報道での事件に限らず、五戒を守れないことにより、さまざまな人生の場面で悪影響がでてくることは容易に想像がつくと思います。    いま改めて、生活の基本に五戒を据えてみてはいかがでしょうか。
7月の言葉

2022年6月30日 ブログ

7月の言葉 完き人の教えには 何ものかを弟子に隠すような 教師の握り拳は存在しない 中村元訳『ブッダ最後の旅』より <解説>    今月1日付けで第7代貫主を拝命した善曉と申します。拙寺興隆のため尽力してまいりますので、何卒倍旧のご支援を賜りますようお願い申し上げます。    さて、初めての「今月のことば」となりますが、釈尊の最晩年について描かれた『涅槃経』から選びました。    ある時、釈尊は病にかかってしまいます。その後、その病から回復しますが、釈尊に対して侍者の阿難が最後の説法を請います。「今月のことば」は、釈尊が阿難へ説かれた一部です。    釈尊は「自分は自らの教えを誰にでも、隠すことなく説いてきた」ということを語っています。つまり「教師の握り拳」とは、師匠が教えを握り拳の中に秘めて人に伝えないことを意味します。    当時の仏教を除いた諸宗教においては、特定の人間にしか教えを伝えない方が普通でした。インドでは教えの伝承が限定的・閉鎖的であるのが一般的であったにも拘わらず、釈尊はその常識を打ち破り、自らが覚ったこと(教え)を請う人々へ伝えてきたのです。    釈尊の「慈悲の心」により、その教えがインドから中国・韓国を経て日本にまで伝えられてきました。お寺の基本は、仏(ほとけ)の教えを説くところ・聞くところであると信じています。これからもこの基本から外れることなく取り組んで参りますので、よろしくお願いいたします。
事前入力の受付を再開しました。

2022年4月8日

システム障害の為、長い間ご迷惑をおかけしましたが今日から受付を再開しました。システム障害の為、長い間ご迷惑をおかけしましたが今日から受付を再開しました。
令和3年のぼり旗奉納者合同祈願祭報告

2021年7月2日 お祭り・法要  

令和3年度ののぼり旗法要はお陰様で無事円成する事が出来ました。 法要の様子をビデオに収めましたので是非ご覧下さい。 下の写真をクリックして頂くとビデオが始まります。  
4月8日はお釈迦様のお誕生日です。

2021年3月31日

4月8日はお釈迦様のお誕生日です。お釈迦様に花をお供えしてお祝いしましょう。 お釈迦様は今から2500年余前、インド北東部(今のネパール)の都市でシャカ族の王子としてお生まれになりました。 お釈迦様はお母様がお産のために実家にお帰りになる途中、ルンビニ苑の無憂樹と言う木の側でお生まれになりました。 ブッダチャリータというお経には「お釈迦様がお生まれになると、天地は6種に振動し、大地には様々な色の花がいっせいに咲き誇り、空からは甘露の法雨が降り注いだ。」と記述されていることから、お釈迦様のお誕生日には花で飾られたお堂(花御堂)をあつらえ、中に右手は天を、左手は地を指さす誕生仏を安置し、誕生仏に甘茶をかけてお祝いするようになりました。 お釈迦様は本名、ゴータマ・シッダールタと言い、お釈迦様がお覚りになってからは「シャカ族出身の仏」という意味でお釈迦様、釈迦如来と呼ぶようになりました。 さて、お釈迦様は幼少の頃から人間が持って生まれた生老病死」という苦しみから如何したら解放されるのだろう?と悩み抜いた末、お城を飛び出し、王子という地位を捨てて苦行林に入り、宿業からの離脱を願って6年間あらゆる苦行に挑れました。 何故に必死で苦行をされたかというと、当時のインドでは肉体があるから心が悩み苦しむのだ、心を解放するためには体と心を分離すれば良い、という考え方が主流でしたので若いシッダールタもそれに習って苦行によって心と体を分離し、心を解放しようと試みたのです。 しかし、体を痛めつければ痛めつけるほど心は衰弱し、気持ちは弱まり、気力が失せて行きました。肉体と心は別物ではなく、一体のものだと気付かれたお釈迦さまは苦行林を抜け出し、尼連禅河の清い水で体を浄め、スジャーターと言う娘が供養してくれた乳粥を食べて体力の回復を図り、直ぐそばにあった菩提樹の下で1週間瞑想し、遂にお覚りを得られたのです。 お釈迦様のお覚りを簡単に説明すると「私たちが暮らすこの世は本来が苦であり、人間はその苦を一身に集める存在である。なのに人はそのことに気付かず、幸せに暮らす事が当然と考え、余計に苦しみを取り込んでいる。幸せなりたい、平安な暮らしがしたいと願うならば、先ずは自分の事を横に置き、周囲の人の幸せを願い、その為に自分に出来る施しを精一杯しなさい。そうすれば自然に己の心から我執が薄れ、欲望が弱まり、不安・恐怖を取り除く心の力が増大し、心の平安を得ることが出来る。と覚られたのです。 花祭りには是非お寺にお参りし、お花を供え、甘茶を供養してお釈迦様のお誕生をお祝いて下さい。