6月の言葉
2023/05/31 17:49
6月の言葉

まだ善の報いが熟しないあいだは
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中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』 より |
<解説>
多くの方は「自業自得」(じごうじとく)という言葉を一度は聞いたことがあると思います。『大辞林』によると、以下のように説明されています。〘仏〙自分のおこないの結果を自分が受けること。一般には悪い報いを受けることにいう 『大辞林』でも言及されていますが、この言葉は仏教語です。また、違う表現をするならば「善因楽果、悪因苦果」となります。善なる行為(善行)は快なる結果をもたらし、その反対に、悪なる行為(悪行)は不快な結果をもたらす、ということを意味します。いずれの表現でも良いのですが、仏教ではこの「自業自得」の原則を重視しています。 聖句に話を戻すと、上記の教えの前には悪行についても説かれており、「まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う」と記されます。 つまり、ここでは先ほどの「自業自得」の理をもう少し具体的に説いてくれています。善行あるいは悪行による結果(報い)は、必ずしも即時的ではないことを補足しているのです。これは、善行の結果がすぐに出ないからといって、善行をあきらめて悪行に慣れしたしんではいけない。善行を積み重ねていくことの重要さを教えてくれています。我々凡人は行為の結果をすぐに求めがちですが、それに流されずに善行を続けたいものです。 |
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5月の言葉
2023/04/29 17:29
5月の言葉

善をなすのを急げ
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中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より |
<解説>
今月は、これまでに紹介してきた中でも特に短い句を取り上げます。上記の聖句では「善」と「悪」について明確な説明はありませんが、おそらく道徳的なことを意味していると思われます。しかし、それでは分かりづらいかもしれませんので、引用元の『法句経』からではありませんが、善悪について説かれている箇所を参照しながら、説明を進めていくことにします。 「善」の代表的なものとして「十善」(じゅうぜん)があります。すなわち、(1)殺さず・(2)盗まず・(3)邪淫(道を外れた淫事)せず・(4)妄語(嘘をつくこと)せず・(5)綺語(飾り立てた言葉)せず・(6)悪口(荒々しい言葉)せず・(7)両舌(人を悪くいう言葉)せず・(8)貪らず・(9)瞋らず・(10)邪見をいだかず、の十種のことです。そして「悪」とは、この十善の反対であると説明しています。普段聞きなれない言葉も使われていますが、最初の七つは他者への振る舞いが説かれ、最後の三つは自分自身について触れられます。 かつてここで書いたことがありますが、人は漫然と過ごしていたのでは貪りなどの煩悩に振り回されて悪いことを行ってしまいます。積極的に「悪」を離れて「善」なる行いをすることで、その人にとって不快ではなく快なる結果がもたらされます。それが引いては、心乱れない状況や環境を作り出し、穏やかな生活を送ることができてくるはずです。 |
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4月の言葉
2023/03/31 17:41
4月の言葉

(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる
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中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より |
<解説>
今月は『法句経』の「賢い人」という章から聖句を選びました。若い時には親や先生、先輩から誤りを指摘してもらえることが多くありました。その時には反発するような気持ちにもなりましたが、今となっては感謝の気持ちしかありません。ただ年齢を重ねてくると、そもそも誤りを指摘されることが少なくなってきました。これが成長できた結果であればいいのですが、ただ周囲から諦めで見捨てられているとしたら、実になさけないことです。 さて、上記の句には続きがあり「そのような人(=賢い人)につき従うならば、善いことがあり、悪いことはない」と記されます。ここで言及される賢者とは「真理に通達した人」、つまり「覚った人(=ブッダ)」を指すと考えられます。 人は正しい智慧を備えていないと善悪の判断を適切に下せないことがあります。年代を問わず、誰にとっても誤りを指摘し正しい道へと導いてくれる人は貴重な存在です。ただし、肩書きのある人が必ずしも正しい知識・智慧を持っているとは限りません。その人の振る舞いや話す内容から、信頼に値する人物かどうかは自分で判断をする必要があります。わたしたちは人を見る目を磨いて賢い人と関係を築き、正しい道を歩むべく努力していかなければなりません。 |
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3月の言葉
2023/02/28 17:28
3月の言葉

うるわしく、あでやかに咲く花でも
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中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より |
<解説>
長い冬がそろそろ終わりを告げ、3月になると春本番となってきます。今月の後半ともなれば、色鮮やかな春の花々を目にする機会が増えてくるのではないでしょうか。日本と釈尊が過ごしたインドでは、当然のことながら生息する花の種類は異なるでしょうが、花を愛でる気持ちに大差はないように思います。 これまで何度も紹介してきた『法句経』というお経には、その「花」にちなんだ教えをまとめている箇所があります。今月はその中から教えを選んでみました。 日々、我々は種々雑多な情報に接しています。その中には、有益な情報であったり、教え・教訓となるものがあると思います。みなさんは自分にとってそうした教えや教訓となり得るものを見聞きした時に、行動に移せるでしょうか。頭では有益であることが分かっていても、気分が乗らなかったり、他の欲求の方が勝ってしまい実践できないことは、誰しも経験があろうかと思います。 仏教に限らないかもしれませんが、教えや教訓を見たり・聞いたりしているだけでは、その有益さを実感することは難しいはずです。やはり、その教えや教訓にもとづいて実践することにより、それらの教え・教訓がもつ有益さを経験・体得できるのではないでしょうか。ただ、そうは言ってもすぐに全力で行動へ移せる人は多くないでしょう。そんな時は、少しずつでもいいから、行動へ移していくことを意識すると良いかもしれません。 |
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2月の言葉
2023/01/30 17:13
2月の言葉

修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか
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中村元訳『ブッダ最後の旅』より |
<解説>
今月15日は「涅槃会」(ねはんえ)です。これは釈尊が亡くなられたとされる日に行われる法要です。今回は、その「涅槃」にまつわる有名なエピソードを紹介します。ある時、80歳の釈尊は病にかかります。釈尊はその病からは回復しますが、その釈尊に対して侍者の阿難(アーナンダ)が最後の説法を請いました。それに対して、釈尊が上記のように語りました。 仏教外の宗教においては教えの伝承が限定的・閉鎖的であるのが一般的であったにも拘わらず、釈尊はその常識を打ち破って、自らが覚ったこと(教え)を請う人々みんなへ伝えてきたことをここで阿難へ教えているのです。 釈尊の生涯を通してみると、35歳で覚りを得てから、一度はその教えが難解なため説法することをためらいます。しかし、梵天という神様から説法を求められて以降は、相手の身分や階級を選ぶことなく教えを説きました。それは、釈尊の臨終間際まで続けられます。つまり、先ほど自らが語っていたように、誰にでも説法をし続けていたのです。 もし、釈尊が当時のインドの慣習にしたがって、教えを特定の人のみに伝えていたら、我々まで仏教は来ていなかったかもしれません。我々のような凡夫のために教えを生涯説き続けた釈尊の姿には「慈悲の心」が見て取れると同時に、当時の宗教界の常識にとらわれなかった先進的な考え方に感心するばかりです。 |
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正月の言葉
2022/12/27 17:52
正月の言葉

心は、捉えがたく、軽々とざわめき
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中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より |
<解説>
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。さて、みなさんはご自身の「心」をどのようにお考えでしょうか。心は自分のものであるから、完全に制御(コントロール)できるものと考える方もおられるのではないでしょうか。 ただ、本当に普通の人間が心というものを完全に制御できているでしょうか。 例えば「欲求に負けて食べることを止めていた物を口にする」ことや「早くしなければならないことがあるのに、気分が乗らないから、行動に移すことができない」といったことは、大抵の人が一度や二度は経験があるのではないでしょうか。もちろん、心を制御できているときはあるでしょうが、常時制御することはかなり困難であると思います。 仏教では、人は「心をおさめること」を怠ってしまうと、欲望によって心が侵食されていくと考えています。ここでは直接言及されていませんが、心をおさめることを実践し制御することで、貪りや怒り、嫉みといった余計な感情(煩悩)を生じさせず、心乱れない状態を作り出せると言われます。すなわち、心穏やかな状態(安楽)がもたらされるのです。 自分も含めて、ほとんどの人は欲求に流されて、心が乱れがちになってしまいます。定期的にでも良いので、心の制御のために自分を律することをしていきたいものです。 |
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