ブログ

9月の言葉

2023/08/31 17:32

9月の言葉

みずから悪をなすならば、みずから汚れ
みずから悪をなさないならば、みずから浄まる
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである
人は他人を浄めることができない

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』
<解説>
   今月は『法句経』の「自己」という章から聖句を選びました。
   これまでに何度か書いてきましたが、本経には自己すなわち心の修養をすべきことが説かれます。なぜなら、仏教では我々人間を欲望にとらわれる存在とみなしているからです。人は普段何も意識せず「心の修養」を怠っていると、心が欲望に侵食され、逆に「心の修養」に勤めていれば、心に余計な感情が起こらないので、乱れることがないと考えていました。
   上記の聖句では表現こそ異なりますが、悪いことをなせば、心は汚れて欲望に侵され、その反対に悪をなさない、もっと積極的に言えば、善いことをすると心は浄らかになっていくと示されます。    では、我々は「善いこと」として何をしたらよいのでしょうか。ここでは具体的に書かれていませんが、心を制御(コントロール)するための瞑想・座禅や戒めの遵守などの実践のことだと思われます。現在でもお寺でみなさんが体験・経験できることです。
   ただ、この心のあり方は第三者の言動や行動・考えに触発されることはあっても、最終的には各自の心の持ちようになってきます。悪いことは意識せずとも行なうことができますが、善いことは意識しないと実行しづらい側面があります。この点も考慮しながら、みずからの心の浄らかさを保てるよう努力したいものです。

8月の言葉

2023/07/31 17:17

8月の言葉

学ぶことの少ない人は
牛のように老いる
かれの肉は増えるが
かれの知慧は増えない

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   今月は『法句経』の「老いること」という章から聖句を選びました。
   人は誰しも老いていきます。現代では「アンチエイジング」という名のもと、いささかの抵抗手段はあるようですが、根本的なところでは老いに逆らうことはできず、結果として、みな死んでいきます。
   仏教では生老病死という四つを人生の苦しみとして位置づけます。間違ってはいけないのが、これら四つはそれ自体が悪ではありません。我々がこれら四つについて「正しく知らない・認識していない」ため、自らの思い通りにできないと感じ、苦しむのです。それゆえ、仏教では老いや死から目を背けることをよしとしません。
   上記の聖句に先立って、人間の肉体は、他の物質が朽ちていくのと同様に、老いによって衰えていくことを明示しています。そして、釈尊は肉体が衰えていっても、学ぶことによって知識・智慧の蓄積をしていくことを求めました。ただ単に老いた人は「空しく老いぼれた人」と辛辣な表現さえすることがあります。他の箇所では、年老いた人には「誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつける」ことが望まれています。
   このような徳性を備えている人だからこそ、年をとっても敬うべきであるし、実際に敬われたのでしょう。人生を歩む上で、いつまでも心に留めておきたい教えだと思います。

7月の言葉

2023/06/30 17:11

7月の言葉

荒々しいことばを言うな
言われた人々は汝に言い返すであろう
怒りを含んだことばは苦痛である
報復が汝の身に至るであろう

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   今月は『法句経』の「暴力」という章から聖句を選びました。
   「暴力」という語を見ると、無意識的に身体に危害を及ぼす行為などを想像してしまいがちですが、荒々しいことばも「ことばの暴力」と言えるでしょう。
   直接相手に対峙して荒々しいことば(暴言)を放つには、怒りやそれなりの覚悟がともないます。この場合、対立関係となりやすいのは容易に想像がつきます。
   一方で、SNSの普及・利用者数の増加にともなって、ネット上での誹謗中傷が社会問題化しています。ネット上では相手と対面せず、しかも匿名で発言できるため、安易な誹謗中傷が惹起しやすいとも言われます。ネット上の誹謗中傷に対して、泣き寝入りする時期が長くありましたが、近年では状況が変わって、プロバイダーやSNS管理者に誹謗中傷の発信者情報の開示請求を行って、法的責任を問うことが増えてきました。ただこれらの行為は「報復」だとは思いません。誹謗中傷の責任をとらされているだけです。
   一般的に誹謗中傷する人は悪意もしくは歪んだ正義感をもって実行している場合が多いと聞きます。味方もいるかもしれませんが、それ以上に敵も多くなるのでしょう。そうなると、争いの絶えない状況に陥るのではないでしょうか。
   人間は多くの人と関わりあいながら生きていきます。現実であれ、ネット上であれ、殺伐とした環境で過ごす人々に心の安らぎが訪れるべくもありません。

6月の言葉

2023/05/31 17:49

6月の言葉

まだ善の報いが熟しないあいだは
善人でもわざわいに遇うことがある
しかし善の果報が熟したときには
善人は幸福に遇う

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』 より
<解説>
   多くの方は「自業自得」(じごうじとく)という言葉を一度は聞いたことがあると思います。『大辞林』によると、以下のように説明されています。
      〘仏〙自分のおこないの結果を自分が受けること。一般には悪い報いを受けることにいう
『大辞林』でも言及されていますが、この言葉は仏教語です。また、違う表現をするならば「善因楽果、悪因苦果」となります。善なる行為(善行)は快なる結果をもたらし、その反対に、悪なる行為(悪行)は不快な結果をもたらす、ということを意味します。いずれの表現でも良いのですが、仏教ではこの「自業自得」の原則を重視しています。
   聖句に話を戻すと、上記の教えの前には悪行についても説かれており、「まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う」と記されます。
   つまり、ここでは先ほどの「自業自得」の理をもう少し具体的に説いてくれています。善行あるいは悪行による結果(報い)は、必ずしも即時的ではないことを補足しているのです。これは、善行の結果がすぐに出ないからといって、善行をあきらめて悪行に慣れしたしんではいけない。善行を積み重ねていくことの重要さを教えてくれています。我々凡人は行為の結果をすぐに求めがちですが、それに流されずに善行を続けたいものです。

5月の言葉

2023/04/29 17:29

5月の言葉

善をなすのを急げ
悪から心を退けよ
善をなすのにのろのろしたら
心は悪事をたのしむ

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   今月は、これまでに紹介してきた中でも特に短い句を取り上げます。
   上記の聖句では「善」と「悪」について明確な説明はありませんが、おそらく道徳的なことを意味していると思われます。しかし、それでは分かりづらいかもしれませんので、引用元の『法句経』からではありませんが、善悪について説かれている箇所を参照しながら、説明を進めていくことにします。
   「善」の代表的なものとして「十善」(じゅうぜん)があります。すなわち、(1)殺さず・(2)盗まず・(3)邪淫(道を外れた淫事)せず・(4)妄語(嘘をつくこと)せず・(5)綺語(飾り立てた言葉)せず・(6)悪口(荒々しい言葉)せず・(7)両舌(人を悪くいう言葉)せず・(8)貪らず・(9)瞋らず・(10)邪見をいだかず、の十種のことです。そして「悪」とは、この十善の反対であると説明しています。普段聞きなれない言葉も使われていますが、最初の七つは他者への振る舞いが説かれ、最後の三つは自分自身について触れられます。
   かつてここで書いたことがありますが、人は漫然と過ごしていたのでは貪りなどの煩悩に振り回されて悪いことを行ってしまいます。積極的に「悪」を離れて「善」なる行いをすることで、その人にとって不快ではなく快なる結果がもたらされます。それが引いては、心乱れない状況や環境を作り出し、穏やかな生活を送ることができてくるはずです。

4月の言葉

2023/03/31 17:41

4月の言葉

(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる
聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え
—— 隠してある財宝のありかを
告げてくれる人につき従うように

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   今月は『法句経』の「賢い人」という章から聖句を選びました。
   若い時には親や先生、先輩から誤りを指摘してもらえることが多くありました。その時には反発するような気持ちにもなりましたが、今となっては感謝の気持ちしかありません。ただ年齢を重ねてくると、そもそも誤りを指摘されることが少なくなってきました。これが成長できた結果であればいいのですが、ただ周囲から諦めで見捨てられているとしたら、実になさけないことです。
   さて、上記の句には続きがあり「そのような人(=賢い人)につき従うならば、善いことがあり、悪いことはない」と記されます。ここで言及される賢者とは「真理に通達した人」、つまり「覚った人(=ブッダ)」を指すと考えられます。
   人は正しい智慧を備えていないと善悪の判断を適切に下せないことがあります。年代を問わず、誰にとっても誤りを指摘し正しい道へと導いてくれる人は貴重な存在です。ただし、肩書きのある人が必ずしも正しい知識・智慧を持っているとは限りません。その人の振る舞いや話す内容から、信頼に値する人物かどうかは自分で判断をする必要があります。わたしたちは人を見る目を磨いて賢い人と関係を築き、正しい道を歩むべく努力していかなければなりません。

3月の言葉

2023/02/28 17:28

3月の言葉

うるわしく、あでやかに咲く花でも
香りのないものがあるように
善く説かれたことばでも
それを実行しない人には実りがない

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   長い冬がそろそろ終わりを告げ、3月になると春本番となってきます。今月の後半ともなれば、色鮮やかな春の花々を目にする機会が増えてくるのではないでしょうか。
   日本と釈尊が過ごしたインドでは、当然のことながら生息する花の種類は異なるでしょうが、花を愛でる気持ちに大差はないように思います。
   これまで何度も紹介してきた『法句経』というお経には、その「花」にちなんだ教えをまとめている箇所があります。今月はその中から教えを選んでみました。
   日々、我々は種々雑多な情報に接しています。その中には、有益な情報であったり、教え・教訓となるものがあると思います。みなさんは自分にとってそうした教えや教訓となり得るものを見聞きした時に、行動に移せるでしょうか。頭では有益であることが分かっていても、気分が乗らなかったり、他の欲求の方が勝ってしまい実践できないことは、誰しも経験があろうかと思います。
   仏教に限らないかもしれませんが、教えや教訓を見たり・聞いたりしているだけでは、その有益さを実感することは難しいはずです。やはり、その教えや教訓にもとづいて実践することにより、それらの教え・教訓がもつ有益さを経験・体得できるのではないでしょうか。ただ、そうは言ってもすぐに全力で行動へ移せる人は多くないでしょう。そんな時は、少しずつでもいいから、行動へ移していくことを意識すると良いかもしれません。

2月の言葉

2023/01/30 17:13

2月の言葉

修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか
わたくしは、内外の区別なしにことごとく法を説いた
全き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような
教師の握り拳は存在しない

中村元訳『ブッダ最後の旅』より
<解説>
   今月15日は「涅槃会」(ねはんえ)です。これは釈尊が亡くなられたとされる日に行われる法要です。今回は、その「涅槃」にまつわる有名なエピソードを紹介します。
   ある時、80歳の釈尊は病にかかります。釈尊はその病からは回復しますが、その釈尊に対して侍者の阿難(アーナンダ)が最後の説法を請いました。それに対して、釈尊が上記のように語りました。
   仏教外の宗教においては教えの伝承が限定的・閉鎖的であるのが一般的であったにも拘わらず、釈尊はその常識を打ち破って、自らが覚ったこと(教え)を請う人々みんなへ伝えてきたことをここで阿難へ教えているのです。
   釈尊の生涯を通してみると、35歳で覚りを得てから、一度はその教えが難解なため説法することをためらいます。しかし、梵天という神様から説法を求められて以降は、相手の身分や階級を選ぶことなく教えを説きました。それは、釈尊の臨終間際まで続けられます。つまり、先ほど自らが語っていたように、誰にでも説法をし続けていたのです。
   もし、釈尊が当時のインドの慣習にしたがって、教えを特定の人のみに伝えていたら、我々まで仏教は来ていなかったかもしれません。我々のような凡夫のために教えを生涯説き続けた釈尊の姿には「慈悲の心」が見て取れると同時に、当時の宗教界の常識にとらわれなかった先進的な考え方に感心するばかりです。

正月の言葉

2022/12/27 17:52

正月の言葉

心は、捉えがたく、軽々とざわめき
欲するがままにおもむく
その心をおさめることは善いことである
心をおさめたならば、安楽をもたらす

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
   さて、みなさんはご自身の「心」をどのようにお考えでしょうか。心は自分のものであるから、完全に制御(コントロール)できるものと考える方もおられるのではないでしょうか。
   ただ、本当に普通の人間が心というものを完全に制御できているでしょうか。
   例えば「欲求に負けて食べることを止めていた物を口にする」ことや「早くしなければならないことがあるのに、気分が乗らないから、行動に移すことができない」といったことは、大抵の人が一度や二度は経験があるのではないでしょうか。もちろん、心を制御できているときはあるでしょうが、常時制御することはかなり困難であると思います。
   仏教では、人は「心をおさめること」を怠ってしまうと、欲望によって心が侵食されていくと考えています。ここでは直接言及されていませんが、心をおさめることを実践し制御することで、貪りや怒り、嫉みといった余計な感情(煩悩)を生じさせず、心乱れない状態を作り出せると言われます。すなわち、心穏やかな状態(安楽)がもたらされるのです。
   自分も含めて、ほとんどの人は欲求に流されて、心が乱れがちになってしまいます。定期的にでも良いので、心の制御のために自分を律することをしていきたいものです。

12月の言葉

2022/11/30 17:59

12月の言葉

つとめ励むのは不死の境地である
怠りなまけるのは死の境涯である
つとめ励む人々は死ぬことが無い
怠りなまける人々は死者のごとくである

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   仏教では、古くから「つとめ励む」ことを称え、「怠りなまける」ことや「怠惰」なことを諌めてきました。
   自分を律することができず怠惰な人は、生活をしてはいますが、特段何かをするわけではないと考えられます。その反対に、自分を律することができ「つとめ励む」人は行うべきこと・行うべきでないことを峻別して、自分の使命や務めを果たしていくくと思われます。そして「つとめ励む」ことがその人だけにとどまらず、周囲へも影響を与えていくので「不死の境地」と表現し、その実践者を「不死」と見たのでしょう。当然「怠りなまける」ことは、生きていても周囲へ波及することがほとんどなく、それを「死」、そして怠る人を「死者」のようだと表現しているのです。
   先月も紹介しましたが、仏教では我々人間を欲望にとらわれた存在であるとみなしています。そのため、普段何も意識せず(心の修養を)怠りなまけていると、心が欲望に侵食されていきます。逆に(心の修養に)つとめ励んでいれば、余計な感情が心に起こらないので、乱れることがありません。
   「心の修養」については、先月の繰り返しになってしまうので内容は省きますが、心を制御(コントロール)するための実践ぐらいに考えてください。
   仏教の見方としては、「怠惰でなまける」ことにより得られるものはそれほどなく、「つとめ励む」ことによって心の安寧が得られるのです。それゆえ、「つとめ励む」ことが古くから重視されたのでしょう。

11月の言葉

2022/10/31 18:17

11月の言葉

屋根を粗雑に葺いてある家には
雨が洩れ入るように
心を修養してないならば
情欲が心に侵入する

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   今月も『法句経』から選びました。この文章自体は難しいものではありませんが、何を言わんとしているかはいまいち分かりづらいのではないでしょうか。
   この教えのキーポイントは最後の句の「情欲」だと思います。
   情欲とは「貪り」とも訳されますが、ここでは「過剰な欲求」「激しい欲望」とも言い換えられると思います。仏典では「三毒」(さんどく)といって、人間の根源的な煩悩(欲望)を三つあげるのですが、この「情欲」とはそのうちの一つに数えられるものです。
   そもそも、仏教では我々人間を欲望にとらわれた存在であるとみなしています。そのため普段何も意識せず「心の修養」を怠っていると、心が欲望に侵食されてくるということです。逆に「心の修養」に勤めていれば、心に余計な感情が起こらないので、乱れることもないのです。
   では、「心の修養」とはどのようなことを指しているのでしょうか。ここでは明確にされていませんが、おそらく、心を制御(コントロール)するための瞑想や戒めの遵守などの実践を意味していると思われます。この「心の修養」とは、現在のお寺でみなさんも体験・経験できることなのです。
   繰り返しになりますが、人は漫然と過ごしていたのでは貪りなどの煩悩に振り回されます。「心の修養」を行って、心乱れない状況を作り出し、穏やかな生活を送りたいものです。

10月の言葉

2022/09/29 17:16

10月の言葉

実にこの世においては
怨みに報いるに怨みを以てしたならば
ついに怨みの息むことがない
怨みを捨ててこそ息む

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   『法句経』の中でも有名なことばの一つです。目にしたり、耳にしたりしたことがある方も多いかもしれません。
   人間は他人から不利益を被ってしまった場合、その人物へ不満を抱き怨んでしまいます。そして、この不利益が大きければ大きいほど、相手への怨みを募らせて報復行為へと走りがちです。個人レベルでも怨みを捨てることはなかなか難しいですが、個人から規模が大きくなって国家レベルともなると、さらに困難をともなうことが推察されます。
   この教えは、まさに「言うは易し行うは難し」と言えるでしょう。
   個人であれ国家であれ、悪事の行為者は、それに対する正当な報い(現代で言えば刑罰など)を当然ながら受けるべきです。しかし復讐心という怨みにより相手を極限にまで追い込むことは、それが報復の連鎖を生み、結果として、争いが止まなくなってしまいます。このことは過去の歴史からも明らかです。
   個人的にはこの教えだけではなくて、害意ある行動を起こさせない、そして悪い行為をした場合にはその報いは必ず受けることも併せて説き示し、相手を正しい行動へ導いていく必要があると考えています。
   いずれにせよ、本当の意味での平穏・平和の実現とは、この教えの意味をしっかりと理解したときなのではないでしょうか。

9月の言葉

2022/08/31 14:36

9月の言葉

ものごとは心にもとづき、心を主とし
心によってつくり出される
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば
福楽はその人につき従う

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   この教えでは、世界のものごとは、人々の心によって作り出されると説かれています。さらに続けて、清らかな心による行為であれば、その結果である福楽が行為者にもたらされ、それは影がその人のからだから離れないようにつき従うと説明されるのです。
   では、その反対に「汚れた心」による行為はどのように言われるのでしょうか。上記の教えの直前に説明がなされており、汚れた心による行為は、その結果である苦しみが自らについて回ると言います。
   ここから見て取れるのは、ものごとや人の行為というものは、心の有り様によって変わってくるということです。
   例えば、怒りや焦りが渦巻いているときには、普段なら気にも留めない他人の行為やものごとに対して、さらにイライラしてしまうことは誰にでも経験があるのではないでしょうか。そのイライラした心にまかせて何かをしてしまうと、自分にとって不快な結果を招きやすいものです。その逆で心穏やかなときであれば、他人に対しても配慮して行動がとれるので、結果として自分に望ましいことが起きやすいと言えるでしょう。
   常に清らかな心を維持できるように心がけておく必要があることを気付かせてくれる教えです。

8月の言葉

2022/07/27 17:16

8月の言葉

すべて悪しきことをなさず
善いことを行い
自己の心を浄めること
これが諸の仏の教えである

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   ご存知かもしれませんが、日本の仏教諸宗派すべてが重視する経典は無いに等しいと言っても過言ではありません。しかし、それでも諸宗派に共通する教えは何かと問われれば、今月あげている『法句経(ダンマパダ)』の一句になろうかと思います。
   「悪いことをせず、善いことをして、心を悪に染めないで浄らかにする」という、非常にシンプルとも言える教えです。ここで「悪いこと」や「善いこと」とは何かが問題となりますが、紙幅の関係上、「善いこと」を説明しましょう。
   在家・出家において程度の差こそあれ、仏教徒が守るべき基本的な戒めとして、「五戒(ごかい)」があります。その五つとは以下の通りです。
   ⒈生きものを殺さないこと
   ⒉盗みをしないこと
   ⒊性に関して乱れないこと
   ⒋嘘をつかないこと
   ⒌酒を飲まないこと
   戒めを守ることは、財産や人間関係、そして品性ある生活に役立つとされるばかりか、普段からの怒りや嫉妬などからも距離をとることができ、心穏やかな生活を送れると説かれます。
   最近の報道でも、これら五戒から逸脱する行為がたびたび見受けられます。報道での事件に限らず、五戒を守れないことにより、さまざまな人生の場面で悪影響がでてくることは容易に想像がつくと思います。
   いま改めて、生活の基本に五戒を据えてみてはいかがでしょうか。

7月の言葉

2022/06/30 16:02

7月の言葉

完き人の教えには
何ものかを弟子に隠すような
教師の握り拳は存在しない

中村元訳『ブッダ最後の旅』より
<解説>
   今月1日付けで第7代貫主を拝命した善曉と申します。拙寺興隆のため尽力してまいりますので、何卒倍旧のご支援を賜りますようお願い申し上げます。
   さて、初めての「今月のことば」となりますが、釈尊の最晩年について描かれた『涅槃経』から選びました。
   ある時、釈尊は病にかかってしまいます。その後、その病から回復しますが、釈尊に対して侍者の阿難が最後の説法を請います。「今月のことば」は、釈尊が阿難へ説かれた一部です。
   釈尊は「自分は自らの教えを誰にでも、隠すことなく説いてきた」ということを語っています。つまり「教師の握り拳」とは、師匠が教えを握り拳の中に秘めて人に伝えないことを意味します。
   当時の仏教を除いた諸宗教においては、特定の人間にしか教えを伝えない方が普通でした。インドでは教えの伝承が限定的・閉鎖的であるのが一般的であったにも拘わらず、釈尊はその常識を打ち破り、自らが覚ったこと(教え)を請う人々へ伝えてきたのです。
   釈尊の「慈悲の心」により、その教えがインドから中国・韓国を経て日本にまで伝えられてきました。お寺の基本は、仏(ほとけ)の教えを説くところ・聞くところであると信じています。これからもこの基本から外れることなく取り組んで参りますので、よろしくお願いいたします。