ブログ

4月の言葉

2023/03/31 17:41

4月の言葉

(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる
聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え
—— 隠してある財宝のありかを
告げてくれる人につき従うように

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   今月は『法句経』の「賢い人」という章から聖句を選びました。
   若い時には親や先生、先輩から誤りを指摘してもらえることが多くありました。その時には反発するような気持ちにもなりましたが、今となっては感謝の気持ちしかありません。ただ年齢を重ねてくると、そもそも誤りを指摘されることが少なくなってきました。これが成長できた結果であればいいのですが、ただ周囲から諦めで見捨てられているとしたら、実になさけないことです。
   さて、上記の句には続きがあり「そのような人(=賢い人)につき従うならば、善いことがあり、悪いことはない」と記されます。ここで言及される賢者とは「真理に通達した人」、つまり「覚った人(=ブッダ)」を指すと考えられます。
   人は正しい智慧を備えていないと善悪の判断を適切に下せないことがあります。年代を問わず、誰にとっても誤りを指摘し正しい道へと導いてくれる人は貴重な存在です。ただし、肩書きのある人が必ずしも正しい知識・智慧を持っているとは限りません。その人の振る舞いや話す内容から、信頼に値する人物かどうかは自分で判断をする必要があります。わたしたちは人を見る目を磨いて賢い人と関係を築き、正しい道を歩むべく努力していかなければなりません。

3月の言葉

2023/02/28 17:28

3月の言葉

うるわしく、あでやかに咲く花でも
香りのないものがあるように
善く説かれたことばでも
それを実行しない人には実りがない

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   長い冬がそろそろ終わりを告げ、3月になると春本番となってきます。今月の後半ともなれば、色鮮やかな春の花々を目にする機会が増えてくるのではないでしょうか。
   日本と釈尊が過ごしたインドでは、当然のことながら生息する花の種類は異なるでしょうが、花を愛でる気持ちに大差はないように思います。
   これまで何度も紹介してきた『法句経』というお経には、その「花」にちなんだ教えをまとめている箇所があります。今月はその中から教えを選んでみました。
   日々、我々は種々雑多な情報に接しています。その中には、有益な情報であったり、教え・教訓となるものがあると思います。みなさんは自分にとってそうした教えや教訓となり得るものを見聞きした時に、行動に移せるでしょうか。頭では有益であることが分かっていても、気分が乗らなかったり、他の欲求の方が勝ってしまい実践できないことは、誰しも経験があろうかと思います。
   仏教に限らないかもしれませんが、教えや教訓を見たり・聞いたりしているだけでは、その有益さを実感することは難しいはずです。やはり、その教えや教訓にもとづいて実践することにより、それらの教え・教訓がもつ有益さを経験・体得できるのではないでしょうか。ただ、そうは言ってもすぐに全力で行動へ移せる人は多くないでしょう。そんな時は、少しずつでもいいから、行動へ移していくことを意識すると良いかもしれません。

2月の言葉

2023/01/30 17:13

2月の言葉

修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか
わたくしは、内外の区別なしにことごとく法を説いた
全き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような
教師の握り拳は存在しない

中村元訳『ブッダ最後の旅』より
<解説>
   今月15日は「涅槃会」(ねはんえ)です。これは釈尊が亡くなられたとされる日に行われる法要です。今回は、その「涅槃」にまつわる有名なエピソードを紹介します。
   ある時、80歳の釈尊は病にかかります。釈尊はその病からは回復しますが、その釈尊に対して侍者の阿難(アーナンダ)が最後の説法を請いました。それに対して、釈尊が上記のように語りました。
   仏教外の宗教においては教えの伝承が限定的・閉鎖的であるのが一般的であったにも拘わらず、釈尊はその常識を打ち破って、自らが覚ったこと(教え)を請う人々みんなへ伝えてきたことをここで阿難へ教えているのです。
   釈尊の生涯を通してみると、35歳で覚りを得てから、一度はその教えが難解なため説法することをためらいます。しかし、梵天という神様から説法を求められて以降は、相手の身分や階級を選ぶことなく教えを説きました。それは、釈尊の臨終間際まで続けられます。つまり、先ほど自らが語っていたように、誰にでも説法をし続けていたのです。
   もし、釈尊が当時のインドの慣習にしたがって、教えを特定の人のみに伝えていたら、我々まで仏教は来ていなかったかもしれません。我々のような凡夫のために教えを生涯説き続けた釈尊の姿には「慈悲の心」が見て取れると同時に、当時の宗教界の常識にとらわれなかった先進的な考え方に感心するばかりです。

正月の言葉

2022/12/27 17:52

正月の言葉

心は、捉えがたく、軽々とざわめき
欲するがままにおもむく
その心をおさめることは善いことである
心をおさめたならば、安楽をもたらす

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
   さて、みなさんはご自身の「心」をどのようにお考えでしょうか。心は自分のものであるから、完全に制御(コントロール)できるものと考える方もおられるのではないでしょうか。
   ただ、本当に普通の人間が心というものを完全に制御できているでしょうか。
   例えば「欲求に負けて食べることを止めていた物を口にする」ことや「早くしなければならないことがあるのに、気分が乗らないから、行動に移すことができない」といったことは、大抵の人が一度や二度は経験があるのではないでしょうか。もちろん、心を制御できているときはあるでしょうが、常時制御することはかなり困難であると思います。
   仏教では、人は「心をおさめること」を怠ってしまうと、欲望によって心が侵食されていくと考えています。ここでは直接言及されていませんが、心をおさめることを実践し制御することで、貪りや怒り、嫉みといった余計な感情(煩悩)を生じさせず、心乱れない状態を作り出せると言われます。すなわち、心穏やかな状態(安楽)がもたらされるのです。
   自分も含めて、ほとんどの人は欲求に流されて、心が乱れがちになってしまいます。定期的にでも良いので、心の制御のために自分を律することをしていきたいものです。

12月の言葉

2022/11/30 17:59

12月の言葉

つとめ励むのは不死の境地である
怠りなまけるのは死の境涯である
つとめ励む人々は死ぬことが無い
怠りなまける人々は死者のごとくである

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   仏教では、古くから「つとめ励む」ことを称え、「怠りなまける」ことや「怠惰」なことを諌めてきました。
   自分を律することができず怠惰な人は、生活をしてはいますが、特段何かをするわけではないと考えられます。その反対に、自分を律することができ「つとめ励む」人は行うべきこと・行うべきでないことを峻別して、自分の使命や務めを果たしていくくと思われます。そして「つとめ励む」ことがその人だけにとどまらず、周囲へも影響を与えていくので「不死の境地」と表現し、その実践者を「不死」と見たのでしょう。当然「怠りなまける」ことは、生きていても周囲へ波及することがほとんどなく、それを「死」、そして怠る人を「死者」のようだと表現しているのです。
   先月も紹介しましたが、仏教では我々人間を欲望にとらわれた存在であるとみなしています。そのため、普段何も意識せず(心の修養を)怠りなまけていると、心が欲望に侵食されていきます。逆に(心の修養に)つとめ励んでいれば、余計な感情が心に起こらないので、乱れることがありません。
   「心の修養」については、先月の繰り返しになってしまうので内容は省きますが、心を制御(コントロール)するための実践ぐらいに考えてください。
   仏教の見方としては、「怠惰でなまける」ことにより得られるものはそれほどなく、「つとめ励む」ことによって心の安寧が得られるのです。それゆえ、「つとめ励む」ことが古くから重視されたのでしょう。

11月の言葉

2022/10/31 18:17

11月の言葉

屋根を粗雑に葺いてある家には
雨が洩れ入るように
心を修養してないならば
情欲が心に侵入する

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   今月も『法句経』から選びました。この文章自体は難しいものではありませんが、何を言わんとしているかはいまいち分かりづらいのではないでしょうか。
   この教えのキーポイントは最後の句の「情欲」だと思います。
   情欲とは「貪り」とも訳されますが、ここでは「過剰な欲求」「激しい欲望」とも言い換えられると思います。仏典では「三毒」(さんどく)といって、人間の根源的な煩悩(欲望)を三つあげるのですが、この「情欲」とはそのうちの一つに数えられるものです。
   そもそも、仏教では我々人間を欲望にとらわれた存在であるとみなしています。そのため普段何も意識せず「心の修養」を怠っていると、心が欲望に侵食されてくるということです。逆に「心の修養」に勤めていれば、心に余計な感情が起こらないので、乱れることもないのです。
   では、「心の修養」とはどのようなことを指しているのでしょうか。ここでは明確にされていませんが、おそらく、心を制御(コントロール)するための瞑想や戒めの遵守などの実践を意味していると思われます。この「心の修養」とは、現在のお寺でみなさんも体験・経験できることなのです。
   繰り返しになりますが、人は漫然と過ごしていたのでは貪りなどの煩悩に振り回されます。「心の修養」を行って、心乱れない状況を作り出し、穏やかな生活を送りたいものです。

10月の言葉

2022/09/29 17:16

10月の言葉

実にこの世においては
怨みに報いるに怨みを以てしたならば
ついに怨みの息むことがない
怨みを捨ててこそ息む

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   『法句経』の中でも有名なことばの一つです。目にしたり、耳にしたりしたことがある方も多いかもしれません。
   人間は他人から不利益を被ってしまった場合、その人物へ不満を抱き怨んでしまいます。そして、この不利益が大きければ大きいほど、相手への怨みを募らせて報復行為へと走りがちです。個人レベルでも怨みを捨てることはなかなか難しいですが、個人から規模が大きくなって国家レベルともなると、さらに困難をともなうことが推察されます。
   この教えは、まさに「言うは易し行うは難し」と言えるでしょう。
   個人であれ国家であれ、悪事の行為者は、それに対する正当な報い(現代で言えば刑罰など)を当然ながら受けるべきです。しかし復讐心という怨みにより相手を極限にまで追い込むことは、それが報復の連鎖を生み、結果として、争いが止まなくなってしまいます。このことは過去の歴史からも明らかです。
   個人的にはこの教えだけではなくて、害意ある行動を起こさせない、そして悪い行為をした場合にはその報いは必ず受けることも併せて説き示し、相手を正しい行動へ導いていく必要があると考えています。
   いずれにせよ、本当の意味での平穏・平和の実現とは、この教えの意味をしっかりと理解したときなのではないでしょうか。

9月の言葉

2022/08/31 14:36

9月の言葉

ものごとは心にもとづき、心を主とし
心によってつくり出される
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば
福楽はその人につき従う

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   この教えでは、世界のものごとは、人々の心によって作り出されると説かれています。さらに続けて、清らかな心による行為であれば、その結果である福楽が行為者にもたらされ、それは影がその人のからだから離れないようにつき従うと説明されるのです。
   では、その反対に「汚れた心」による行為はどのように言われるのでしょうか。上記の教えの直前に説明がなされており、汚れた心による行為は、その結果である苦しみが自らについて回ると言います。
   ここから見て取れるのは、ものごとや人の行為というものは、心の有り様によって変わってくるということです。
   例えば、怒りや焦りが渦巻いているときには、普段なら気にも留めない他人の行為やものごとに対して、さらにイライラしてしまうことは誰にでも経験があるのではないでしょうか。そのイライラした心にまかせて何かをしてしまうと、自分にとって不快な結果を招きやすいものです。その逆で心穏やかなときであれば、他人に対しても配慮して行動がとれるので、結果として自分に望ましいことが起きやすいと言えるでしょう。
   常に清らかな心を維持できるように心がけておく必要があることを気付かせてくれる教えです。

8月の言葉

2022/07/27 17:16

8月の言葉

すべて悪しきことをなさず
善いことを行い
自己の心を浄めること
これが諸の仏の教えである

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』より
<解説>
   ご存知かもしれませんが、日本の仏教諸宗派すべてが重視する経典は無いに等しいと言っても過言ではありません。しかし、それでも諸宗派に共通する教えは何かと問われれば、今月あげている『法句経(ダンマパダ)』の一句になろうかと思います。
   「悪いことをせず、善いことをして、心を悪に染めないで浄らかにする」という、非常にシンプルとも言える教えです。ここで「悪いこと」や「善いこと」とは何かが問題となりますが、紙幅の関係上、「善いこと」を説明しましょう。
   在家・出家において程度の差こそあれ、仏教徒が守るべき基本的な戒めとして、「五戒(ごかい)」があります。その五つとは以下の通りです。
   ⒈生きものを殺さないこと
   ⒉盗みをしないこと
   ⒊性に関して乱れないこと
   ⒋嘘をつかないこと
   ⒌酒を飲まないこと
   戒めを守ることは、財産や人間関係、そして品性ある生活に役立つとされるばかりか、普段からの怒りや嫉妬などからも距離をとることができ、心穏やかな生活を送れると説かれます。
   最近の報道でも、これら五戒から逸脱する行為がたびたび見受けられます。報道での事件に限らず、五戒を守れないことにより、さまざまな人生の場面で悪影響がでてくることは容易に想像がつくと思います。
   いま改めて、生活の基本に五戒を据えてみてはいかがでしょうか。

7月の言葉

2022/06/30 16:02

7月の言葉

完き人の教えには
何ものかを弟子に隠すような
教師の握り拳は存在しない

中村元訳『ブッダ最後の旅』より
<解説>
   今月1日付けで第7代貫主を拝命した善曉と申します。拙寺興隆のため尽力してまいりますので、何卒倍旧のご支援を賜りますようお願い申し上げます。
   さて、初めての「今月のことば」となりますが、釈尊の最晩年について描かれた『涅槃経』から選びました。
   ある時、釈尊は病にかかってしまいます。その後、その病から回復しますが、釈尊に対して侍者の阿難が最後の説法を請います。「今月のことば」は、釈尊が阿難へ説かれた一部です。
   釈尊は「自分は自らの教えを誰にでも、隠すことなく説いてきた」ということを語っています。つまり「教師の握り拳」とは、師匠が教えを握り拳の中に秘めて人に伝えないことを意味します。
   当時の仏教を除いた諸宗教においては、特定の人間にしか教えを伝えない方が普通でした。インドでは教えの伝承が限定的・閉鎖的であるのが一般的であったにも拘わらず、釈尊はその常識を打ち破り、自らが覚ったこと(教え)を請う人々へ伝えてきたのです。
   釈尊の「慈悲の心」により、その教えがインドから中国・韓国を経て日本にまで伝えられてきました。お寺の基本は、仏(ほとけ)の教えを説くところ・聞くところであると信じています。これからもこの基本から外れることなく取り組んで参りますので、よろしくお願いいたします。

6月の言葉

2022/05/29 17:11

6月の言葉

人は信仰によって激流を渡り
精進によって海を渡る
勤勉によって苦しみを捨て
智慧によって清らかとなる

ブッダの言葉より
<解説>
   人生は「七転び八起き」、この世は「四苦八苦」と言われるように「幸せ」は束の間、直ぐに苦しみや悲しみが襲ってくる。
   若い時の苦悩は努力で切り開くことが出来るが、徐々に努力だけでは苦悶を取り除くことが出来なくなってくる。如何してもその困窮に耐える「勇気」と「安心感」を心に与えてくれるものが必要である。
   その難問に答えてくれるものが「信仰」であり、信仰は何ものにも動じぬ心の平安と勇気を与えてくれる。
   お釈迦さまはこのことを「信仰によって激流を渡る」と表現して信仰を持つことの功徳の大きさを示してくださっている。
   愚僧自身も観音信仰のお陰で75歳の今日まで何とか激流を渡ってくることが出来た。
   信仰によって奇跡が起きるとは言わないが、結果として奇跡が起きたのかと思える不思議な功徳を何度か経験した。そしてそうした経験の積み重ねの中で、切羽詰まった時「観音様にお願いすれば何とかして頂ける」との確信のようなものが生まれ、取り乱す事なく難題に対処する事が出来、結果として大難を小難で逃れることが出来て来た。
   心とは不思議なもので、恐怖感や不安感に囚われるとすべてのことに狼狽し、しなくても良い失敗を繰り返し、益々不幸を呼び込んでしまう。その反面、心が冷静で安心感を持ち続けていると、不思議に苦境を脱出する智慧が湧き、深みに陥らずに脱出することが出来る。
   信仰とは御仏の功徳を信じること。そして信じれば救われる、と古来から言い伝えられるように正に信仰の力は絶大である。
   益々信仰を深め、平安な日々を是非獲得して頂きたい。

5月の言葉

2022/04/29 17:21

5月の言葉

尊敬と謙譲と満足と感謝と
[適当な]時に教えを聞くこと
これがこよなき幸せである。

ブッダの言葉
 山陰中央新報社発刊「中村元慈しみの心」より
<解説>
 
   昨年の11月に本山で住職勤続50年の表彰を頂いた。思い返せば昭和45年の11月、師匠である貫主が壊疽の為寝たきりになり、代務を努めるため副住職を拝命したのが始まりであった。
   大学を出たばかりで右も左も解らぬ小僧が、壁に突き当たり、道に迷いながらの50年であった。
   その間、周囲に生意気な発言をし、不遜な態度をとった事は一度や2度では無かったと思うが、若いからとお許し頂き、根気よくご指導頂いた多くの諸先輩に只々感謝するのみである。
   生意気盛りの時、当時の天台座主山田恵諦猊下から「僧侶は三界の大導師と言われ、人を人と思わぬ僧が居るが、私は僧侶とは信徒の幸せを願い、その為に働く下僕である、と思っている。自分が偉いと思い違いしているから、意のままにならぬことに腹を立て、苛つくのであり、不満を抱えて他者を批判したくなるのだ。己の至らなさを確りと自覚せよ。他者の優れた面をじっくりと観察せよ。そうしたら自然に謙虚な心が育まれ、感謝の気持ちが湧いてくる筈だ。」と諭されたことがあった。
   最初は中々その様な気持ちになれなかったが、堂舎の修理を重ねる毎に力を貸してくださる方々・支えて下さる方々の生活、態度やお気持ちを知るにつれ、自然に尊敬と謙譲の心が芽生え、頭を下げることが出来るようになった。
   今思えば尊敬と感謝と謙譲の心を育むことが出来たことが、曲がりなりにも清水寺の貫主を勤め上げることが出来た最大の要因だと思っている。    今頭を下げることが出来ない人が増えている。是非今月の言葉を噛み締めてほしい。

4月の言葉

2022/03/31 13:01

4月の言葉

欲望は楽しみ少なく
苦しみ多く悩み多し
しかし、欲望以外に
楽しみ見出せず。

ゴータマ・ブッダ上(中村元著)より
<解説>
 
   今月の言葉はお釈迦様が後年シャカ族のマハーナーマに述懐された時の言葉だそうです。
   お釈迦さまは今月の言葉に続いて、しかし、私はついに欲望を超えるものを見出した。『もはや私は「欲望は楽しみ少ないものであり、苦しみ多く、悩み多く、そこには災い甚だしい」ことを正しい知恵によって見出した。しかも、欲望以外のところに、悪の事柄以外のところに、喜び楽しみを体験し、それよりも更に到着した。』と。
   当に人間釈迦の生の声を聞いたように思います。仏となられえたお釈迦さまも悟りを得られるまでは「欲望が私たちに不幸を招いていることは朧げに理解できていたが、然りとて欲望や悪事以外から喜びや満足を得ることが出来なかった。しかし、菩提樹の下で瞑想に入り、自分の心の中にある欲望や悪心、心の動きを深く観察していたら、欲望や悪心以外から喜びや楽しみを見出せることに気づき、欲望や誘惑に魅せられない自分を作り上げることが出来た。」と言い切られているのです。
   この悪心や欲望からの誘惑に完全に打ち勝った人を私達は「もつれた糸を解ける人、仏」と呼んでいるのです。
   今から2600年余前、現在のネパールでお生まれになったお釈迦様だけではなく、お釈迦さまのように心の誘惑に打ち勝った人は皆仏であり、この世に生を受けた人は誰でも仏になれるのです。
   私も皆さんも共に仏になれるようお釈迦さまの御教えを学び、心の誘惑に勝てるように精進致しましょう。

3月の言葉

2022/02/27 17:14

3月の言葉

喉の渇いた修行者に
村の娘は施した
水のおかげで今ここに
汲めども尽きぬ水を得た

スリランカの寓話より
<解説>
 
   スリランカのある村で、町中の人総出で豆の収穫作業をしていた。そこへ1人の修行者が水を求めてやってきた。この修行者の苦しそうな姿を見た1人の少女は気の毒に思い、収穫作業をしている人達が用意していた「水」を村人の許可も無く与えてしまった。
   休憩に入り水を飲もうとした村人達は水は少なくなっているのに気づき「誰が勝手に飲んだ」と騒ぎになった。すると先ほどの少女が「私が修行者に施しました。」と云うと、人々は口々にそれは奇特な事だが私達も喉がカラカラなので私達にも喉を潤す水を持って来てくれ、と詰め寄った。
   少女は自分が施した水のことを思いながら一心に畑っを見つめ、水の恵みを祈った。そうすると不思議なことに畑から大量の水が噴き出したので少女はその水を汲みに行き、自分自身も行水をしながら、清く美味しい水を瓶に汲み、村人の所に届けた。
   この水を飲んだ村人達は余りの美味しさに、再度の水汲みを求めたが娘は直ぐに水を汲んできた。辺りに湧水が見えない事を不審に思い、水の湧き場を尋ねると、少女が指差す所に湧水を誰も見ることが出来なかった。
   村人の求めに応じ、湧水が誰にも見えるようにと又一心に祈ると、不思議な事に誰の目にも見えるようになり、村人達はその不思議に感激し、その後は誰もが水の施しを積極的に行うようになり、その村は大きな町になっていつ迄も栄えたと伝えられている。
   修行僧に水を布施した少女はその後も善行を積み、天界に生まれ変わり、美しい庭のある宮殿で幸せに暮らしたとのこと。

2月の言葉

2022/01/29 18:25

2月の言葉

衰亡をきたさ無い為の
七つの法を説く
よく聞き
心にとどめなさい

ブッダ最後の旅(遊行経)より
<解説>
 
   お釈迦様は死を迎える準備のため、故郷への帰り支度をしておられる時、阿南尊者に近くにいる弟子を全員集めるように指示され「衰亡しないための7つの教え」をお説きになりました。その7つの教えとは
⒈ 未来の世を繁栄を信ずる心を持ち続けること。
⒉ ともすれば弱音を吐き、人を恨み、物事に執着する心を恥ずかしく思う心を持ち続けること。
⒊ 日頃の自分自身の言動が道理に反していないかを常に反省する心を失わないこと。
⒋ 広い知識を求め、よく見聞を広めること。
⒌ 目標を達成するために精一杯努力し、怠け心を常に戒め続けること。
⒍ 常に心の安定を意識し、心の乱れを押さえる事に腐心せよ。
⒎ 社会を見渡し、世の流れを的確に掴む知惠を育むこと。
と説き、この7つの法を身につければ末永く繁栄する事が出来ると示されたのです。でも繁栄の7つの法を身につけることは簡単なことではありません。
   しかし、お釈迦様の教えをよく学び、貪(欲望)瞋(怒り)痴(無知)と言われる三毒を確りと自覚し、仏様のご加護を願いながら日々生活するならば、知らず知らずの内にこの7つの法を会得して、意識しなくても繁栄の7つの法を持って生活できるようになると教えて下さっています。
   令和4年は是非この7つの法を身につけて幸せな1年をお過ごし下さい。

正月の言葉

2021/12/25 15:01

正月の言葉

他人の言葉を吟味する
知恵も持たずに簡単に
信ずる者は友達も
すぐに離れてしまうだろう

ジャータカ物語より
<解説>
 
   新年のお慶びを申し上げます。寅年となりましたが皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
   さて、お釈迦様の前世物語「ジャータカ物語」に「仲の良い虎とライオン」と言う寓話があります。
   その寓話では大の仲良しである虎とライオンを仲違いさせようと考えた山犬はライオンとトラの処に行って、相手の悪口をいいふらしました。この悪口を聞いたライオンは「俺は親友のトラを信じるから、二人の間を離間させるようなことを言うな。今度来たら噛み殺すぞ。」と叱りました。一方山犬からライオンの悪行を聞いたトラは半信半疑でライオンの処へやって来て、「ライオン君、君は山犬が言うように本当に私を貶(けな)し、私を一撃で倒せると言ったのか?」と尋ねました。
   ライオンはその質問に「山犬は私の処へもやって来て、今君が言ったと同じ事を私に話してきた。私は君がそんなことを言うはずがないと信じているので、二度と来るなと叱っておいた。」と答え、続けて「勝手気ままで、だらしなく、友を疑い欠点を、探す輩(やから)は友じゃない 僅(わず)かな疑問も挟まずに、母に抱かれてすやすやと、眠る子どもの無心さは、壊すことなどできぬもの。そんな友こそ本当の友と呼ぶのに値する。」と話し、「後は君の判断に任せるよ。」と話したと言う物語です。
   貴方はどのような判断を下しますか。真の友を失わないようにしたいものです。

12月の言葉

2021/11/30 18:38

12月の言葉

羅睺羅よ
慚愧の心のない人は
妄語して心を覆うと
正法が心に入らない

「大智度論」より
<解説>
 
   羅睺羅(ラーフラ)とはお釈迦様の実子で密行第一、学習第一と讃えられ、釈尊の十大弟子に数えられたた高僧です。
   この羅睺羅が子供の頃、父釈尊を訪ねにきた人達に、釈尊が在宅中には「父は出かけて居ません」と嘘をつき、釈尊が不在の時に人が訪ねてくると「父は今在宅して居ますが、忙しくてお出会い出来ません」と答えていました。
   この行いを心配したお釈迦様の高弟がお釈迦様に羅睺羅の行動を伝えました。
   この話を聞かれたお釈迦様は羅睺羅を呼び「足を洗う澡盤を持ってきて、水を入れ、私の足を洗い清めなさい。」と命じられました。羅睺羅は言い付け通りに澡盤を用意し、父釈迦仏の足を洗いました。洗い終わったのを確認したお釈迦さまは「この澡盤をひっくり返しなさい。」と命じ、羅睺羅は指示通り水の入った澡盤をひっくり返しました。それを確認されたお釈迦さまは羅睺羅に「今捨てた水をもう一度澡盤の中に戻しなさい。」と指示されました。これまで素直に従っていた羅睺羅は辛抱できずに「一度捨てた水は澡盤には戻せない。」と答えました。
 これを聞かれたお釈迦さまは静かに「羅睺羅よ恥じる心を持たない人は、妄語して嘘で心を覆うてしまうと「正しい人の道」が心の中に入って来ないのは、一度捨てた水が盤に戻せないのと同じなんだよ。」と諭された逸話です。
 これ以後、羅睺羅は戒律を守る弟子第一と呼ばれるようになりました。

11月の言葉

2021/10/31 11:20

11月の言葉

山住みの冬の夕べの寂しさを
浮世の人は何と語らむ
空蝉(うつせみ)のもぬけの殻かこれほどに
知らぬ山路を問えど答へず

良寛の「法華讃」より
<解説>
 
   皆さんよくご存知の良寛和尚の「法華讃」と言う本が出版されました。この本は禅僧の良寛和尚が法華経を百二首の句でもって讃えられたものだそうです。
   禅僧の方が法華経をこれ程深く理解し、大切にしておられたのには驚きでした。そして、特に観音様への理解の深いのには敬服しました。
   今月の言葉の意味は「誰も観音様の居場所について案内してくれる人はいない。」と読んだ句だそうですが、併せて観音経の一節を折り込んで「真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観あるも 無観最も好観なり 為に報ず 途中未帰の客 観音は宝陀山に在さずと」とも記されているそうです。
   意味は「観音様は真実を見る目、清らかで汚れない目で世界を観察される。また、大変大きく広い智慧を持って世を観察し、慈悲に満ちたお心で衆生を見つめて下さっている。しかし、私たち凡夫には無観即ち何のこだわりも、執着も無く、無心に観察することが最も好い観察であろう。こうした目で世界を見渡したとき、観音様がお住みになると言われる補陀落浄土に行きたいと、必死にその場所を探している人に告げたい。観音様は補陀落浄土におられるのでは無く貴方自身の心の中に住んでおられるのですよと。」誠に素晴らしい観察です。私たちも外に観音様を求めるのでは無く、自分の心に中に住んでおられる観音様を確りと観察しましょう。

10月の言葉

2021/09/30 16:36

10月の言葉

瞋りを殺して安穏である
瞋りの心を殺して悔い無し
瞋りは毒の根本である
瞋りは一切の善を滅ぼし尽くす

大智度論より
<解説>
 
   早いもので秋の彼岸も過ぎ、早10月となりました。コロナ感染も収束の兆しが見え、皆さん11月からの自粛解禁を待ち望んでおられることでしょう。でもその期待が裏切られた時、皆さんはどのような行動をとるのでしょう。私達は自分が期待したことが実現できない時、言いようのない瞋り(いかり)に襲われ、言わなくてもよい悪口を口走り、取り返しの付かない行為に走ってしまうことが多々あります。
   特に現代人は怒りにまかせた行動をとりがちで、あんな良い人が・・と残念がられる事件が続発しています。
   今月の言葉はその瞋りを沈め、止むことの利益を説いています。
   ある日、帝釈天が「何ものを殺して安穏なのでしょう、何ものを殺して悔いが残らないのでしょうか、何ものが毒の根本であって一切の積善を飲み込み、消滅させてしまうのでしょうか」とお釈迦様にお尋ねした際のお言葉です。「殺す」という言葉遣いは些か不穏当ではありますが2500年ほど前の教えですのでご容赦下さい。
   瞋りは貪(とん)・痴(ち)と共に三毒と呼ばれ、私達凡夫はこの三つの煩悩のために、折角の人生を苦しく・幸少ないものにしているのです。お釈迦様はこの事を私達に示し、「三毒から離れる生活をしなさい。その為には欲望を慎み、正しい働きをする智慧を磨き、怒りを静めることに留意すれば求めなくても安楽が訪れ、幸福な人生が送れるのです。」と説いておられます。ご自分のお心を護り、御仏のご加護を頂戴して下さい。

9月の言葉

2021/08/31 16:36

9月の言葉

衆生は常に苦悩し
盲冥にして導師なく
苦の尽きる道を
識らず

法華経化城喩品より
<解説>
 
   はや秋の彼岸を迎える月となりました。もう皆さんもよくご存知のように彼岸とは仏の国、即ち浄仏国土に最も近づく時期という意味で、ご先祖さまのご供養をする時とされていますね。
   ではどうして毎年春秋の2回彼岸が訪れるのに、私たちは彼岸に行けないのでしょう。それは私たち自身が仏になると言うことの真の意味を考えようとしないからでは無いのでしょうか。
   化城喩品と言うお経でお釈迦様は「この不幸な人間はあらゆる苦悩に苛まれ、目を奪われたかのように正しい道に導く師を見付けられず、苦悩を終わらせる方法を知らず、苦悩を脱れるために精進もしない。禍悪は長きに亘って増大し、天上の衆さえも堕落に身を委ねる。」と嘆いておられます。
   では覚りとはどのような状態なのでしょう、このお経では「ブッダは一度瞑想に入ると姿勢は微動たりとも動かず、心は落ち着き、平安を保ち、動揺散乱することなく、苦しみに喘ぐ人々を救済したいとの願い(慈悲の心)を持ち続けられた。」と記されている。
   言い換えれば彼岸とは「慈しみの心」を涵養して、様々な欲望や執着、怒りや不安の為に苦しみを呼び込んでいる己を、平安の境地に到達させつことだと言えるでしょう。
   平安の境地に到達し、慈悲心を磨き続けられた仏様を畏敬し、仏様の教えを学び、仏様の境地に近づくように精進・稽古して行くことが彼岸に到達する秘訣なのです。